GIC Myanmarで教育部門を担当しております渡辺です。
10月も下旬、日本は秋に差し掛かった頃でしょうか。ヤンゴンは雨季が明けたようです。これを書いておりますのは、タティンジュの連休中です。三か月続いた僧侶の雨安居が明けるのを祝う灯火の祭りで、家々や寺院に灯りがともり、夜の街がやわらかく明るくなります。両親や祖父母、そして恩師に贈り物をして感謝を伝える日でもあるのだそうです。私も、「むすこ、むすめ」(担当の生徒たち)から贈り物をいただき、照れくさいような、ありがたいような気分で過ごしております。
さて、「ヤンゴンでの50音」の第12回です。毎回50音の順番に3音ずつ取り上げて、その音で始まる言葉を話題として書いてきております。そして、今回は「め」、「も」、「や」です。
め:「メッセージアプリ

筆者が中国に駐在したのは二度、北京と上海です。北京の頃は固定電話と電子メール、外出先ではBB機、日本でいうポケベルが中心で、初期の携帯電話も使っておりました。上海の頃には携帯電話が主になっています。いずれにしても、音声での会話が中心の時代でした。
スマートフォンを持つようになったのは、その後、東南アジアで暮らすようになってからです。ちょうどメッセージアプリが広まり始めた頃で、主流はWhatsAppでした。マレーシア、インドネシア、フィリピン、インドと、この地域ではどこでもこれが使われており、今でもこれらの国の方々との連絡はたいていWhatsAppです。ただしタイだけは日本と同じようにLINEが広く使われており、こちらが主になっています。
ところがミャンマーに来てみると、また様子が違います。主流はViberで、近年はTelegramも広く使われているようです。WhatsAppはあまり見かけません。同じ東南アジアでありながら、なぜここだけ違うのか。調べてみました。
答えは、この国の通信の歴史にありました。長いあいだ携帯電話は一般の人の手に届くものではなく、1990年代には契約に50万円ほどかかったといいます。それが段階的に下がり、2014年にはSIMカードが150円ほどになりました。普及率も2013年の1割未満から、翌年には6割に達しています。
さらにこの国では、規制や商業上の事情から携帯電話のショートメッセージがほとんど使えませんでした。つまりミャンマーは、その時代を経験しないまま、いきなりスマートフォンとアプリの時代に入ったのです。日本でいえば、ポケベルから携帯メールへという段階を丸ごと飛ばしたようなものでしょうか。
その空白に入り込んだのがViberでした。2014年の調査では携帯電話利用者の79%がViberを使い、同じ調査のFacebookの58%を上回っていました。通信料だけで通話もメッセージもできる安さが受けたのでしょう。今もインターネット利用者のおよそ4割が使っているとされます。
と、ここまで熱心に調べておきながら恐縮なのですが、筆者自身はViberをあまり使っておりません。社員や生徒との連絡は、たいていMicrosoft Teamsのチャットで済んでしまうのです。この国の事情に詳しくなったわりに、実践が伴っていない。われながら、しまらない話であります。
も:「モヒンガー」
モヒンガーについては、以前ミャンマーの麺料理を取り上げた回で少しご紹介しました。ナマズの出汁に細めの米粉麺、トッピングはゆで卵や揚げ物など。そのとき、詳細については「いずれ改めて」と書いたまま、ずいぶん間が空いてしまいました。今回はその約束を果たします。
まず名前です。ミャンマー語で「モン」は米の生地や麺を、「ヒンガー」は魚のスープを指すのだそうです。名前そのものが料理の説明になっており、ずいぶん実直な名づけだと思います。
いつ生まれたのかは、調べてみてもはっきりしません。コンバウン朝の記録に魚のスープの麺料理が見えるという話や、モン族の食文化に原型を求める見方もあるようですが、いずれも確かではないようです。誰かが発明したのではなく、長い時間をかけて自然にできあがってきた料理なのでしょう。
朝食としての位置づけについても触れておきます。早朝、まだ暗いうちから屋台の鍋に火が入ります。出勤前の勤め人、托鉢に向かう僧侶、学校へ急ぐ子どもたち。それぞれが同じ一杯を求めて並ぶ。これがこの国の朝の風景です。持ち帰る人はビニール袋に入れてもらいます。汁物を袋で運ぶのは、これまで住んだ国々でも見てきましたので、すっかり見慣れた光景です。
なぜこれほど根付いたのか。川の魚と米、どちらもこの国で容易に手に入るものです。特別なものを使わず、安く、腹持ちがよく、栄養もある。毎朝の一杯として、これ以上ふさわしいものはなかったのでしょう。
日常食でありながら、結婚式や法要など人が集まる行事でも振る舞われるのだそうです。
地域差についても、前回は「地方によって違いがあると聞いています」と書くにとどまりました。その後に知ったところでは、海や川から遠い内陸には、魚ではなく鶏で出汁を取るモヒンガーもあるそうです。出身地が違えば、思い浮かべる故郷の味も違う。国民食でありながら、きわめて個人的な食べ物でもあるのでしょう。

や:「ヤンゴン」

「や」が回ってきましたので、「ヤンゴン」の街そのものについて書こうと思いました。ところが、いざとなって困りました。筆者の知っているヤンゴンは、とても狭いのです。
オフィスと住まい、周辺のレストランが数軒、ジムの入った商業施設、いつもの市場とスーパー、かかりつけの医院と薬局。ほとんどこれで全部です。これでは体験談にならないと、しばらく頭を抱えました。
しかし、これまでの回を読み返して考えが変わりました。道を掃く箒と朝の掃除。市場でパジャマ姿のまま買い物をする人たち。雨季の水たまりとサンダル。スーパーで店員さんにどう声を掛けようかと迷ったこと。——この連載で書いてきたものは、ほとんどすべて、その狭い範囲の中で起きたことだったのです。狭いから書けないのではなく、狭いからこそ書けることがある。そう思い直した次第です。
そのうえで、この街がなぜ今の姿をしているのかを、少しだけ調べてみました。もとはダゴンという小さな漁村で、シュエダゴン・パゴダがそのほぼ中心にあったといいます。1755年にアラウンパヤー王がここを征服し、「戦いの終わり」を意味するヤンゴンと改名しました。今の骨格を決めたのは植民地時代です。1852年に英国が占領してラングーンと改称し、軍の技師の設計で新しい都市が建設されました。ダウンタウンの碁盤目状の区画は、このとき引かれたものです。英語名がヤンゴンに戻ったのは1989年、首都機能がネピドーに移ったのは2006年のことでした。
首都でなくなって二十年になります。それでもヤンゴンはこの国最大の都市であり、経済の中心であり続けています。港は国の貿易の八割を扱っているそうです。
そう知ってから歩くと、見え方が少し変わりました。いつも通る真っ直ぐな道も、植民地時代の設計の名残なのかもしれない。毎日の通勤路が、急に奥行きを持って見えてきます。
着任から間もなく二年になりますが、筆者のヤンゴンはまだ狭いままです。雨季も明けて、歩くのに良い季節になりました。やがては、もう少し広い街について書ければと思っております。
それでは、また。
注)本文記載の内容は筆者個人の見解で、グローバルイノベーションコンサルティング株式会社およびGlobal Innovation Consulting Myanmar Co., Ltd. の見解ではありません。

渡辺 逸夫
ワタナベイツオ
筆者プロフィール
GIC Myanmar Co., Ltd.
マネージャー
1986年日本アイ・ビー・エムに入社。1997年に中国IBMへの出向をきっかけに、その後、約4半世紀にわたり、中国、東南アジア諸国にて、ビジネスコンサル業界、IT業界の複数社での顧客開発を担当。2024年12月にGIC Myanmarに着任。教育部門担当、日本語教師も務める。

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